こんにちは。
今回は障害をお持ちの方やそのご家族のお気持ちについて、想像することしかできませんが書いてみたいと思います。
身内に障害を抱えている人がいるご家族の現実を想像してみる
身内に障害を抱えている方がいるかどうかで、日々自分が得ようとしている情報や目に入ってくる情報は大きく異なります。実際僕自身も行政書士として障害福祉になって初めて知る言葉や制度など「こんなに多種多様で複雑な制度があるのか」と驚くことの連続です。
それだけに、きっと当事者の方々からすれば「理解してもらえない」と感じてしまうのも納得が出来ます。
当事者ではない人(自分も身内にも障害を抱えている方がいない)の場合、自分自身もそうなのですが決して障害者や、そのご家族に対して否定的な意見や偏見などを抱えているつもりはないんです。ただ生きている軸が違うというか。どこか異国の出来事のような感じで日々生きていることが少なくないと思うんです。しかしこれが問題とも言えると今は思っています。
やはり自分たちに関係ないとはいえ、世界のどこかでは戦争や飢餓などで苦しんでいる人がいることを理解して、小さなことでも自分ができることを行う。これが大事なのかもしれません(話が飛躍しすぎたかな?)
将来に対する捉え方も大きく異なりますよね。どんな子供であっても、ほとんどの親が将来を心配すると思います。ですが、障害を抱えている場合、「親なきあと」を考えるのは、ある種自然な流れかもしれません。
健常者の子の場合、学力や経済的なことを考えると今のご時世、不安な事は多くありますが「元気でさえいてくれたらなんとかなるかな」という、若干の楽観的な考えがあるのは恵まれているかもしれません。
健常者だからこそできるできる“ちょっとした理解や配慮”
これは僕自身が特に行政書士になってから日々考えている事です。本当に考えるようになりました。
「何ができるのか」
勿論今現在答えは出ていませんし、ずっと考え続けることかもしれません。よく言われる事としては「大変だね」という言葉が、返って相手を傷つけてしまう言葉になりかねないということ。発した側はそんなこと思ってなくて労っているつもりであっても、受け手はそうは感じていないのはお互い不幸だなと感じています。
現時点では僕は障害をお持ちの方を見かけても特に積極的に声を掛けるようなことはしていません。ですが、障害を抱えている人がいれば、その人をよく見るようにはなりました。何かあればいつでも声をかけられるように。
※決してジロジロ見るわけではありません。
先日も電車に乗っていると高齢の女性2人が近づいてきて、そのうちの1人が僕の隣に座りましたが、もう1人分の席は空いてませんでしたので僕が席を立ってお譲りしました。それはそれで別に何とも思わないのですが、その後しばらくすると今度は足に障害を抱えた女子高生が友達と乗ってきました。誰も席を譲りませんでしたが、その女の子も特に何も気にすることなく普通に友達と談笑していました。ごく普通の女の子そのものでした。
その子が楽しそうに普通に友達と喋っているなら特別扱いする必要もないんだろうなと感じた一幕でした。
壁を少しずつ越えるためにできること
今後、考え方が変わるかもしれませんが、先述の通り僕は特に積極的に声を掛けるようにはしていませんが、障害を抱えている人はよく視界に入るようになりましたし、気になるようにはなりました。
とは言え、普段通り過ごしておられるのであれば過剰なお手伝いは返って、変なおせっかいにもなりかねないと思っているので何事もなければそのまま他の人と同様に過ごします。これが正しいのかどうか現時点ではわかりません。
しかしながら仕事で障害福祉の行政書士として接する時は、なるべくお気持ちや悩み事がないか、誰にも言えないような悩みやストレスを抱えておられないかじっくりお話がきければと思っています。
世間話だけして気分転換になればそれで良しですし。
「〇〇だから、〇〇しないといけない」という固定観念はなるべく排除して、「困った時はお互い様」という気持ちで普段から過ごしてきたいと思っています。
今回も最後までお読み頂きましてありがとうございました。

